※取扱い説明書※


以下のコンテンツをよく読み、なまら用法用量を守ることを誓ってから本文にお進みくださいゴルァ(#゚皿゚)凸

① お蔭様をもちまして我が次男もCHOSHO野球部を引退できましたので、今後は我が家族の備忘録のみとなりそうなオカーソです。

② が、相変わらずCHOSHOでガンガった仲間たちとのこれまでの軌跡は削除しませんので、それらの記事に対して何かしら問題を感じた場合(例:「アタシの取り扱いが小さい」「ヲマイらボケナス杉」「そもそも美化しすぎ」等)におきましては、
  その文責はすべて管理者の西澤盛人にありますので、
  もしかしたら実在する登場人物やその関係者に直接問い合わせることはご遠慮ください。

追記:我が愛すべき長女が、大町岳陽高校の野球部に入部いたしました。

「祝」

という事で今後は我が大町岳陽高校野球部の応援を主にやっていくものとなるかと思います。

  苦情や質問などはすべて管理者が対応いたします。
   fivechilds☆gmail.com
  上記のアドレスまでE-mailでお送りください。


◆管理者プロフィール

氏名:西澤盛人(ニシザワモリト)
住所:緑と雪と温泉のふるさと、小谷村
年齢:52歳(R2年6月11日現在)
職業:もう完全に代表して取締られ役ケテー
バディ:身長178.6㎝(不変) 体重75㎏
家族:右欄「Crew that both I and fate」を参照
特技:子作り 凸(封印)
趣味:子育て 凹(現役)

2019年12月31日

#1755 総括2019.

早いもので今年もとうとう大晦日を迎えました。

 昨年2018を総括するエントリーをアゲて以来、新年を迎えるからこのブログの更新を一切行ってきませんでしたが、新年は良くも悪くもいよいよTOKYO2020の年っから復活をしたい。

 とは思いながらも、しかし主に子供たちを通してヲレら家族の生活について書いてきたこのブログ。はや長男裕貴は社会人5年目。次男廣やんも同様に自衛隊員として丸3年を迎え、親として記録に残しておくべきことはすでに余りないように思います。
 また、長女瑞姫、次女三女の穂姫愛姫も、これまでは父親に対してべったりとくっついてきてくれていましたが、ようやく自我への目覚めも始まりつつある思春期を迎えて、こちらについても書くこと自体が少なくなってくるように思います。
 という事で来年の年賀状からは子供たちの名前を記載せず、ヲレら夫婦からのご挨拶とさせて頂きます。

 ほしゃまずは自分事。
 顧みますれば新皈元。昨年のエントリーで決意を臭わせてはきましたが、春の統一地方選挙における「小谷村長選挙」への出馬をいたしました。
 自分として期限と決めていた年度末の最終段階まで決断をできずにきたのも事実ですが、予定していた通り3月28日に伊勢神宮への参拝を行い、そこで自分と向き合ってみて熟慮した結果の出馬表明となりました。
 選挙に向けてのプランニングは、自分の脳内ではまさに完璧でした。

「10年後、この村が進んでいくべき方向に対して、今の村に何が足りず何を必要とするのか。」

 自分なりに熟慮に熟慮を重ねて、村民の方たちにどう訴えていくべきか。そして未来を選んでいただくべきか。

 出馬を考え始めてから半年ほど経った頃に女房にはその話をし、そして昨年末には母にも話をしました。
 同じく年末、家族全員で上皇様の天皇としての最後の天皇誕生日での一般参賀に参列し、そして家族全員で夕食に向かっていた時、私たちの仲人である前副村長さんが
「出馬表明させて頂きますので、よろしくお願いします」
と電話をくださいました。
 本来ならば当然全力をもって応援しなければならない立場にありながら、またその立場を理解しながらも、しかしそれを聞いてもなお自分の10年後の村に対する考えこそがこの村を次の世代に引き継いでいくために必要だと思い、長男裕貴と次男の廣にはその時の自分の考えをつたえました。
 二人とも、そうするのであれば頑張ればよいではないか。そう言ってくれたこともあり、もう一人の候補者が立候補を表明するも自身の出馬への考えに対して特に影響を与えられたことが無いとの判断に至り、3月29日に伊勢神宮参拝から戻った翌30日。自分のこれまでの動きを察知していち早くコンタクトしてきた信濃毎日新聞記者に対して出馬への思いを語り、4月1日の朝刊に意向表明の記事を掲載して頂きました。

 総てを一人で闘う。誰の支持も得ず、どのような支援も受けず。

 当初から考えていた選挙に対してのプランを、当初考えていた通りに実行し、やり切る事が出来ました。
 寒い日もあり、そして演説してもだれも聞いて下さらない場所でそれを続けたこともありましたが、しかしとにかくやり切りました。
 朝8時からの街頭演説が出来る時間から、夜8時の街頭演説を終了しなければならない時間まで。
 多くの方が色々な考えを伝えてくださいました。もちろん自分の行動に対して否定的なご意見を頂戴したこともありますが、しかし逆にこうすることが若い世代の「これからの村づくり」に対して村民として行動すべきあり方をきづかせるきっかけにもなる、といった話を頂戴することもできました。

 毎朝、出かける前にお結びを握って持たせてくれた女房。帰って「今日はこんな場所で演説してたら、たくさんの人が出てきてくれて話を聞いて下さったんだよ」という話を聞き、「明日も頑張ってね!」と応援してくれた子供たち。自分の出馬に対して複雑な思いを持ちつつもそれを許してくれた母。
 家族の支えをもらいながら、精一杯自分の想いを語り、訴えたこの5日間は、たくさんの人達に私の考えを伝え切れたわけではありませんが、しかし決して後悔することのない日々と、多くの学びや経験、そして自分に対して頂いた評価をこれから生かしていきたいと思えるに十分な、人生の糧とする事が出来ました。

 前村長が打ち上げた観光再生事業に反対する一部の方たちがネットワークを使って広げたキャンペーンにより反事業継続の流れを取り込み、具体策の少ない候補者が残念ながら当選してしまいました。
 これだけ村の基幹産業といえる観光事業が低迷を極める中、反対票を取り込んだがためによりs要塞な検討も検証もないまま観光再生事業に着手するはずだった3セク企業を自身の判断のみで解散させ、その同意書に記載した内容を履行できないままとうとう年末にはその履行を求める元社長が提訴に踏み切るなど、混とんとした状況の中で村は私が思っていた「10年後のために今必要な事」については何一つ取り組めていないばかりでなく、公約に掲げた具体的ではないそれらの施策についても、具体的な進展をみせることはできていません。
 このままこの村が衰退していく方向へと流れていくのは、一村民としても大変残念ではありますが、その流れに身を任せていくわけにもいきませんので、これもまた一村民として自分に出来る活動を続けて参りたい。そう考えています。

 次は家族事。
 一番の哀しみは私たち夫婦の仲を取り持ってくださったお仲人の奥様が、この師走に入ってから他界されたことです。
 知り合いや友人のいないこの村に嫁いで以降、いつも女房のことを気に掛けてくださっていました。時には喧嘩が絶えない私たち夫婦の間に取り入ってくださり、また時には女房を連れ立って旅行に出かけてくださったり。
 子供たちに対しても、自分の孫のように接してくださっていただけた事は、親としても本当にありがたく、だからこそこの別れが残念でなりませんが、これからも見守っていてくださることを願い、ご冥福をお祈りいたします。

 裕貴は松本運輸区にて在来線の車掌業務に勤しんでいるようで、大変な毎日の中にあるようですが、それでも心身を癒してくれる存在との出逢いもあったようで、これからも自分の人生を自分らしく歩んで行ってくれれば、と願っています。

 廣やんは海上自衛隊員として、航空管制官への道をこれまで歩んできましたが、出向した基地の職場での人間関係に深い悩みを抱いているようで、その出向が解け舘山基地に戻った以降、私たち両親に転職の意思を告げてきていました。
 大変残念ではあり、またこれまで成果もなく修行の日々を積み重ねたのみで退職することは、ある意味税金泥棒と取られても仕方ない部分もあり、税金で暮らさせてきた事を思うと申し訳なくも思いますが、一つの組織としては自衛隊はその隊員の自殺率も高いことなどを鑑みると、親としてもその意思を尊重しないわけにもいかない現実と向き合っています。

 瑞姫は中学3年生。最後の総合発表会では、人数は少ないものの3年生が全員で一つの目標を持ち、そして一丸となって取り組んだその姿はすべての親に感動を与えてくれました。
 春には高校生となる予定で現在受験勉強に臨んでいます。どの高校が彼女を受け入れてくれるのかわかりませんが、目指すべき目標をしっかりと立て、その目標に向かって確実に進みながら、長男次男と同様に密度の濃い充実した高校生活を過ごしてほしいと、心から願っています。

 穂姫、愛姫は4月に小谷中学校へと進み、これまでの兄姉と同じく陸上部に入部させて頂きました。生徒数も少ない中、女子が選択できる校内部活動はスキー、吹奏楽、そして陸上の3つのみ。なかでも陸上部は、3年生引退後は2年生の部員がいないため、1年生のヒナマナのほかは男子1名の、3名のみです。
 それでも地味目に練習を頑張り、秋に臨んだ大北縦断駅伝では中学女子の区間を走った愛姫が区間3位、一般女子区間を走った穂姫が区間賞を頂き、その後11月に行われた県縦断駅伝の大北チームに選手として選抜して頂く事が出来ました。
 3人とも部活動、そして学業にも充実した毎日を過ごしてくれていて、親としても先生方をはじめ関わってくださっている多くの皆様に、深く感謝いたします。

 女房は10月31日に誕生日を迎え、とうとう30歳に返り咲きました。
 結婚25年目の銀婚式は昨年約束したような「ナニか形に遺るもの」はプレゼントできませんでしたが、それでもこの1年も毎日毎朝、手を繋いで散歩に出てくれたことは、そうする事によって多くの癒しを享受させてもらっている自分として、感謝以外の何物でもありません。
 また、一番下の双子が中学生になったことで、休日なども部活動などがあるので夫婦の時間を過ごす事が出来るようになり、近隣にある多くの生きたかった場所に出かける事が出来ました。
 特に太平洋戦争に関連した県内や隣県の遺跡、遺構を巡る事は私がその戦争によってかけがえのない家族や自分の生活を失った方々の苦しみや悲しみを知り、夫婦で話し合い、それらに深く思いを致すことからこれからの人としての歩みを考えるためにとても大切な時間となりました。
 平和な日本をこれからも未来永劫引き継いで行けるよう、私たち一国民として行うべきことを考え、実行していきたいと思います。

 母は4月に82歳となりました。毎日よく食べ、よくしゃべり、そして良く歩いて自身の健康維持に努めてくれています。
 誰かしら家族が病気や介護が必要になると、それまでの生活から一変してそれぞれが多くの負担をしていかなければならないことは父の生前に良く理解できましたので、こうして老体にムチ打ちながらもそれを絶える事なく続けてくれていることに感謝するとともに、これからも一日でも永くにち上生活を送れるよう、これまでの日々を維持し続けてくれることを願います。

 仕事面では、ここを考察するにやはり状況は昨年よりもさらに厳しさを増し、現状ではいつまで組織として維持できるのかのめどを立てる事すら難しくなってきています。
 従業員も2名が65歳を超え、現状以上の機械化による肉体労働の軽減を図ることができないなかではその待遇改善もまた取り組まなければならない事案の一つではありますが、地域人口はますます減少しつつ、しかし外国人バブルに湧く隣村白馬村からのお零れのような仕事を頂きながら、今後の在り方について冷静に考えていかなければと思っています。

 何はともあれ大晦日。今年もまた私が家族や皆様から頂けた多くの幸せに感謝し、そしてまた家族がこれまで同様に多くの皆様から支えられ迎えることができた大晦日に感謝しつつ、いよいよやって来るオリンピックイヤーとなる2020を迎えたいと思います。

 来る年がまた皆様にとって喜び溢れる素晴らしい年となりますように、心からお祈り申し上げます。