※取扱い説明書※


以下のコンテンツをよく読み、なまら用法用量を守ることを誓ってから本文にお進みくださいゴルァ(#゚皿゚)凸

① お蔭様をもちまして我が次男もCHOSHO野球部を引退できましたので、今後は我が家族の備忘録のみとなりそうなオカーソです。

② が、相変わらずCHOSHOでガンガった仲間たちとのこれまでの軌跡は削除しませんので、それらの記事に対して何かしら問題を感じた場合(例:「アタシの取り扱いが小さい」「ヲマイらボケナス杉」「そもそも美化しすぎ」等)におきましては、
  その文責はすべて管理者の西澤盛人にありますので、
  もしかしたら実在する登場人物やその関係者に直接問い合わせることはご遠慮ください。

追記:我が愛すべき長女が、大町岳陽高校の野球部に入部いたしました。

「祝」

という事で今後は我が大町岳陽高校野球部の応援を主にやっていくものとなるかと思います。

  苦情や質問などはすべて管理者が対応いたします。
   fivechilds☆gmail.com
  上記のアドレスまでE-mailでお送りください。


◆管理者プロフィール

氏名:西澤盛人(ニシザワモリト)
住所:緑と雪と温泉のふるさと、小谷村
年齢:52歳(R2年6月11日現在)
職業:もう完全に代表して取締られ役ケテー
バディ:身長178.6㎝(不変) 体重75㎏
家族:右欄「Crew that both I and fate」を参照
特技:子作り 凸(封印)
趣味:子育て 凹(現役)

2018年7月7日

#1734 あの夏に、この夏を重ねる。

 あれよあれよという間に6月も終え、すでに今年も折り返し点を回りました。大丈夫か?→ヲレね(Pд`q。)
 台風に伴う大雨と、そのために起こった土石流災害などで日本中広範囲にわたり被害が出ています。亡くなった方々のご冥福と被災されたたくさんの方々が一日も早く日常生活を取り戻されます事を、心から願います。

 さてさて6月はヲレらのケコーソ記念日でしたがアップ済み。それ以外のイベントごとを備忘録。

 まずはペッペペの陸上大会が大町で。
「スパイク引っ掛かるから嫌い」と、毎度ランニングシューズで走り回ってますが、この大会でも自己新を更新♪
まぁ、「自己新」なだけでして、小柄の不利は否めずガンガるものの好記録は出ません。それでもガンガり続けるペッペペ。応援しないとねー。
 で、学習の方も(家でやってるようには全く見えないのに)こないだの1学期末試験ではこれまでの雪辱を果たして学年トップをもぎ取ったようです。
 (家でやってるようには全く見えないのに)
 (ますます深まるカンニング疑惑...)
中旬には小谷小学校の音楽会が開催されました。
クラスの様子はマスクが面倒なので割愛。ヲレ(だけ)の浅井先生♪
あれほど「お父さん、合唱団に入りたくない~・゚・(゚うェ´゚)・゚・ と言っていたマナも、もしかしたらクラスの誰よりも楽しそうに、また合唱団の誰よりも声を響かせられるよう一生懸命に大きな声で唄ってましたヽ(´ー`)ノ←親バカ乙♪
 休みの日も時間を割いて教えてくださる浅井先生(と、自家製プリンを鼻先にぶら下げて士気を高めてくださる教頭先生)のおかげで、合唱団最後の年はきっと有終の美を飾ってくれるであろうことを確信しています♪
でやってきましたヒナマナの陸上県大会。派手な演出と共に始まったヤシらは小学女子1,000メートル60人を3組に分けての第2組。
スタート半周で、後ろ半分の真ん中らあたり。ヤシらの実力からすると後半伸ばして来れると思ってはいたんですが、
中盤でも順位は動かず…
と、残り1周を切ったところから、外から追い込み始めました。
一番前を走る2組トップとこの差で、メインストレートに。
ここで粘り付いたヒナがマナを捉え、みっともないデッドヒート開幕。
ヒナ、マナを振り切って前の子に喰いつこうと必死で追いましたが、
無念、同着orz......
この組で9位10位でしたが、3組のペースが速くてみんな好成績を出したので、最終結果はヒナ27位、マナ31位とちょうど真ん中。
競技が終わればいつもの白馬の女のことイチャイチャしてたかと思ったら、安曇野あたりの新しい友達も出来たようで何よりです。
小学校の枠を超えて、こうして普段なら全く出会いっこない友達が出来るのも、走り続けてくれているお蔭です。これからもガンガっていこう♪(ペシペシ鞭入れますぉ( *´艸`)

 さて本題。小谷はもちろん白馬も新緑の季節を越え、いよいよヲレの大好きな深緑と碧空の季節がやってきました。
  大好きなこの季節。毎年思い出すのは、33年前に今は亡き父と登った白馬岳。
父は私が生まれて間もなく腎臓を患い、人工透析を30年以上続けた2000年の師走に、燃え尽きるように他界しました。
 当時は人工透析の技術も施設もこんな田舎までは行き渡っておらず、千葉に住む叔父を頼ってどうにか命をつなぎ留めた、そんな明日をも知れない病状の父から私は甘やかされて育ち、中学では周囲も巻き込んで悪事に手を染めると、高校では出席停止になりました。
 そんな時、父は夏のある日に大雪渓を望む白馬尻へと私を誘いました。
 天候もよく雨の心配もない当日。父母と私の3人は朝早くジープで出かけ、猿倉から白馬尻を目指してあるきはじめました。
 ゆっくりと歩き、白馬尻に。すると休憩中の父が
「大雪渓まで行こう」
と言い出しました。
 病身ながらも祖父から引き継いだ家業を守るために身を粉にして働いた父は、透析を受けるために通院する時間を惜しんで、母や姉はもちろん、私すらを手元に使って家庭で透析をしていたので、衛生状態も悪いうえ仕事の都合で必ずしも規則的に透析を行えなかった父の体調は、常に思わしくなかったのですが、それでも、
「さぁ、行くぞ」
と先頭を歩き出す父を、母と私も追いました。
 中学の集団登山以来の大雪渓は別天地のようで、私はそこで満足していましたが、父は折り返そうとはしません。
「もう少し。もう少し行こう。」
まさか大雪渓を登るとは思いもせず歩き出した私達は一応長袖を持っているものの、足は運動靴のままでアイゼンも持たず。
 50歩ほど登っては休み、また少し登って休みながら、とうとう大雪渓を登りきってお花畑を超え、夕方の日没前ぎりぎりに白馬岳山頂小屋に到着。
 所持金も僅かだったのですが、小屋の運営会社に勤める知人にお願いして、後払いで泊めていただけました。
 遠く日本海側に沈む夕日を見て、父はそれまで見たことのない充足感に溢れる横顔を見せました。
 翌日も好天。足を滑らせないよう注意をはらいながら、またゆっくりと下りましたが、途中で父は足の痛みに耐えられなくなり、「背負おうか?」何度も尋ねましたが結局は最後まで自力で、登り以上に時間を掛けてどうにか車までもどって来ました。
 いろんな場所に連れて行ってもらいましたが、この時のこの場所ほど、私の心に残っている父との思い出はありません。

 家族を持ってからも、その家族と何度も登った白馬岳。
 50歳になったこの夏、山登りを楽しみにしている娘たちと共に、また登ろう。
 そして、天空の父に、問いてみよう。
「私は、あなたに近づけていますか?」
 発病から15年のあの日、父50歳でした。

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