残念ながら勝利に届きはしませんでしたが、それにしても富山第一も勝ったにしたってあんな大量エラーで試合終わった日ニャ、我が長商なら大変だ( ゚ω゚;) 自滅リストのオンパレードで選手たち寝る暇ないな(笑)
さて標題。なにかと「20年」という区切りが多い近年となりました。来年は結婚満20年。すったもんだとありながらも、あのすっ呆けの相手をよく我慢して頑張ってきたものです→ヲレσ(゚◇゚) ご褒美に新しいレンズなんぞ買ってやろうかと企んでますがムリムリorz........
さてそんな20年。まぁ正確には20年チョイ前の19年ですが、この度10月1日をもってして、大糸木材株式会社で所有してきた冬季営業施設、「レストラン ボン・ネージュ」の所有権を奥白馬高原開発株式会社(いわゆるホテルグリーンプラザですが)に移転する運びとなりました。
重なる営業赤字で本業にかかる負担が大きく、2シーズン前から直営での営業をあきらめて、すでにグリーンプラザさんに営業をお任せしてきたのは何度かブログにも書きました。
スキー場開発が進み、現白馬乗鞍地区にも個人の投資によりわらび平スキー場がオープンしたのは昭和30年代初め。その後徐々にスキー客が増え始め、主たる民宿街だった今のちろりん村あたりの宿からスキー場に上がると、そのお客さんたちがお弁当を食べる場所もないので、建物を建ててくれないか、と先々代の創業者西澤都備が話を頂き、今の浄水施設あたりに初代の建物を建設したのが昭和38年。
父も母も若く、一番上の姉が産まれたばかりの年でした。
昭和41年に札幌オリンピックの開催が決定されると、スキーは爆発的な勢いでその愛好者を増やし、さらに高度成長による好景気も道具を買うだけでも高額となるそのスポーツの発展を下支えして、その受け皿となる小谷や白馬の西山は一気に開発が進みました。
昭和49年、ゲレンデの整備拡張による協議で、ゲレンデ中腹に位置することとなった初代レストハウスはゲレンデ下部への移転新築を行いました。
昭和45年に腎臓を患い、千葉大学病院での治療のため家族みんなで移住した千葉市から、松本の病院での治療が可能となったため長野に帰ってきた頃の話です。
このレストハウスが一番記憶に残っている、という人(関係者)も大変多く、建物内では夜な夜ないろんな出来事が起こっていたようです。登志代姉ちゃんのあんな事とかまー兄ちゃんのそんな事とか(笑)
そしてさらに好景気はバブル時代に入り、周囲の宿泊施設や飲食店などが施設や設備を更新してお客を迎えるなかで、この2代目のレストハウスもいよいよ設備などの老朽化により大規模改修が必要な時期となり、平成4年に建て替える事となりました。
お隣の大阪泉尾高校山岳スキー部が所有する「泉嶺ヒュッテ」を請け負っていたこともあり、非常な突貫工事をすすめるなかでどうにか平成4年12月28日御用納めの日に保健所の許可を頂き、29日より営業を開始する事が出来ました。
バブル崩壊の気配のなか、それでもまだまだお客さんは押し寄せてくる時代でした。が、平成7年の阪神淡路大震災を機に関西方面からのお客さんが激減。やがてはある程度戻ってきたものの、しかしそれから長く続いたデフレの中で、売り上げは年々減少して最後はとうとう私と女房、そして年末年始や連休にはヘルプに来てくれる石井君と土日固定の裕貴、廣という感じでも乗り切れるほどになってしまいました。
これでも実際4か月足らずの営業で赤字を免れる事が出来ず、2年前の営業譲渡となってしまったのです。
いろいろとありました。
一晩で腰の丈ほど雪も積もり、真夜中にゲレンデでそりをした大学生は頭を縫い、食材配達の営業マンと夜中まで卓球をし、さんざっぱら袋を温め、酒を飲んではげろを吐き、そこは禁煙席ですよと何度も申し上げ、まだ中が凍ってるよと言われて頭を下げて、ストーブでは幾多の防止や手袋を焦がし、ニンジンを食べてないという下膳係りにびっくりしながらもキャベツをグルグル回してきました。
沢山の思い出もあり、もっとああしておけばよかったとかこうしたらどうだっただろうという事もありますが、とにかくこれで、昭和38年から長きにわたり続けてきた冬季のレストラン経営に終止符を打ちます。
いままでお世話になった地主わらび平地区の皆様、白馬乗鞍スキー場、白馬コルチナ国際スキー場関係者、観光協会の皆様、お手伝いに来て下さったたくさんの皆様、そして何度も足をお運び頂いた常連のお客様、一見のお客様まで、本当に有難うございました。
これからも滑りにはいきますので、石は投げないでください(懇願)。
0 件のコメント:
コメントを投稿