2014年2月28日
#1176 いずれ伝えたい、伝えられない気持ち
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20:43
自分の気持ちを裏切らない事は、自分が過ごしやすい環境を保つうえでとても大切なことだと思う。その気持ちを持って努力し、自分を取り巻くその事が自分にとって都合の良いようになれば、きっと自分の気持ちが満足するかもしれない。
しかし人は一人では生きてゆけず、そして生きている以上人と関わり、その関係の中で互いに反発し、共感し、敵意を持ったり好意を持ったりしながら、時を過ごしていくんだと思う。
自分以外、それが家族であったとしても自分ではない以上人は必ずどちらかの気持ちをもって接している。
「好き」か「嫌い」か。
自分が接する関係である以上は「何とも思わない」ことは絶対にない。それはたとえその相手が街でたった一回擦れ違うだけの人だったとしても。
好意から互いを意識する時は幸せだ。思いを寄せる相手との時間の中で、その相手に自分を意識してもらえる瞬間は、それが愛情ではなくても心の中に泉が湧くように、豊かな気持ちがあふれ出てくることを感じる。
逆に敵意からその相手を意識する時は不幸だ。決して心は潤うことなく乾き、相手を意識することすら嫌うようになれば、まるで関係ない周囲の人さえ巻き込んでさらに心は不毛の地へ一歩一歩踏み込んでいく。
それでも、互いを認めて相手を理解し、気づき、自分がその接し方を考え、実行した時にその不毛の地には一つの芽が確実に芽生え、それを育てることで互いの関係を改善し、徐々に近づいていく事が出来るだろう。
しかし決して侵してはいけない「人間としての尊厳」。この一線を超えて相手の尊厳を踏みにじったとき、その関係性は修復できないものとなってしまう。
自分はどうだろう。
家族であってもその胸中を察し、思いを持って接し、相手の心に潤いを与えているだろうか。
仕方ないことはたくさんあるけれど、仕方なくないものが仕方なくなることほど、さみしい事はないな。そう感じた昨日今日。せめてその修復できない関係から離れたところで、枯れた心の大地に一粒の種から芽が出て、大きく成らなくともその風にそよぐ葉を支える小さな根が、一滴の潤いで幹を太く強くしていくことを、心から願います。
しかし人は一人では生きてゆけず、そして生きている以上人と関わり、その関係の中で互いに反発し、共感し、敵意を持ったり好意を持ったりしながら、時を過ごしていくんだと思う。
自分以外、それが家族であったとしても自分ではない以上人は必ずどちらかの気持ちをもって接している。
「好き」か「嫌い」か。
自分が接する関係である以上は「何とも思わない」ことは絶対にない。それはたとえその相手が街でたった一回擦れ違うだけの人だったとしても。
好意から互いを意識する時は幸せだ。思いを寄せる相手との時間の中で、その相手に自分を意識してもらえる瞬間は、それが愛情ではなくても心の中に泉が湧くように、豊かな気持ちがあふれ出てくることを感じる。
逆に敵意からその相手を意識する時は不幸だ。決して心は潤うことなく乾き、相手を意識することすら嫌うようになれば、まるで関係ない周囲の人さえ巻き込んでさらに心は不毛の地へ一歩一歩踏み込んでいく。
それでも、互いを認めて相手を理解し、気づき、自分がその接し方を考え、実行した時にその不毛の地には一つの芽が確実に芽生え、それを育てることで互いの関係を改善し、徐々に近づいていく事が出来るだろう。
しかし決して侵してはいけない「人間としての尊厳」。この一線を超えて相手の尊厳を踏みにじったとき、その関係性は修復できないものとなってしまう。
自分はどうだろう。
家族であってもその胸中を察し、思いを持って接し、相手の心に潤いを与えているだろうか。
仕方ないことはたくさんあるけれど、仕方なくないものが仕方なくなることほど、さみしい事はないな。そう感じた昨日今日。せめてその修復できない関係から離れたところで、枯れた心の大地に一粒の種から芽が出て、大きく成らなくともその風にそよぐ葉を支える小さな根が、一滴の潤いで幹を太く強くしていくことを、心から願います。
Written by
Morito D-David Nishizawa
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