2016年12月31日
#1673 総括2016。
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暮れも近づく22日には、お隣の糸魚川市で近年稀な大火が発生し、多くの家屋が焼失するとともに、たくさんの方々が被災され、自宅を失った中でこの年の瀬を迎えています。
まずは一日も早い復旧復興と、被災された方々が平穏な日々を取り戻されますことを切に願います。
さて、我が家では恒例ですが、ショボい年越しの料理と共にテレビで紅白歌合戦を鑑賞し、っからの自前手打ちそば(今年は池原屋さん製粉による特別Ver.)にて年越し、やがてやってくる午前0時の時報とともに、また新しい歳を迎える準備が整いました。
年々長文になる気配のあるこの備忘録ですが、今年以降は短文で簡素にまとめるべく努力をしていくことをまず誓って、まずは仕事の面から総括に入りたいと思います。
〆てみると神代断層地震による需要の急増などによって他地区からの安価な販売を行う大手建材販売業者などが市場に参入してきたことが影響し、木材や建材の売り上げが大きく減少したものの、数字の上では今までになく経常利益が計上された2015年の決算。しかし、いざ税金を納める段になると預貯金も現金もなく、あやうく納税のために借金をしなければならないぎりぎりのところでした。
2016年は冬季から工事の請負が順調に回せたこともあり、また年末の工事終了まで工場も現場も事故なく終了する事が出来て、建設勘定においてはまぁまぁな1年を過ごせました。
逆に木材の販売は昨年に輪を懸けて減少し、工場勘定単独では大きく赤字を作ったはずですが、これも12月〆の決算を終えて見なければその実態は明らかになりません。
が、いずれにしても市場は縮小し建築自体も減っている中、現在の業態を維持するのはやがて近い時期に無理が来るものだと思います。
何かしら手を打たなければならない時期。それは解っていますが、どの方向に舵を切ればよいのかまだ見えていないのも事実です。
次男の野球が終わり、いよいよ週末ごと長野に出かける日も無くなったので、この冬の間にじっくり考えていきたいものです。
ではまず今年の主役、我が廣やん。
昨年のエントリーでも記した通り、我が家にとって今年最大のイベントとなった廣の野球。長野商業での野球を終えました。
入学以来なかなか芽を出さず、2年生になっても練習試合では審判役、ノックではノッカー補助などをしている姿を見てはなんとも言えない心の痛みに苛まれていましたが、2016年になり新たな練習環境が整うなかで冬を超えた彼は、3年を間近に控えた3月にCチームからBチームへと上がると私たちが行きたかった三重への遠征メンバーに選抜され、裕貴以外の家族で向かったその練習試合では仲間のメンバーの負傷もあり、Aチームの試合に出場。ある程度の結果を残し、4月になって迎えた春季大会では背番号19を頂き、北信予選会から県大会へとすすむなかでいくつかの試合で出場機会を得、守備打撃ともにそこそこチームに貢献するという、私たち夫婦が夢にも見なかった結果を残すことができました。
残念ながら最後の夏には背番号を頂く事が出来ずスタンドで仲間の戦いを支える側に回りましたが、最後の最後までよく頑張り、私たち夫婦を兄貴以上に心底ワクワクさせてくれました。
昨年の総括でも書きましたが、「テロ」という見えても見えない相手との闘いが相変わらず世界の人々を脅かし、たまに東京などに出てもまず人ごみなどでは(申し訳ないのですが)中東系の方を見かけるとなるべく早めに逆方向へと足を運ぶ習慣が付いてきました。
日本人とて、そういった事案にいつ巻き込まれるかもしれない状況の中で、自民公明の与党による(いわゆる)戦争法案が可決され、駆けつけ警護なる武力行使が法で容認される時がきた今年。次男は、昨年ここで彼の志望通り自衛隊の採用試験を受け、長商を卒業する春には海上自衛官として、いずれかの任地にて我々国民の生命と財産を守るため、その職に就くことが決まりました。
親として、このような状況の中で自衛隊に息子を送り出すことが本当に残念でしかありませんが、しかし彼は彼の選んだ今後の人生において、自衛官という立場の中で生きていこうと決めました。
両手放しで送り出せるわけではありませんが、しかし精一杯頑張ろうと決めた彼の人生を、これからも親として支えていこう。そう決めました。
一応書いておきます。君がその立場において戦地と言われる場所に派遣され、被弾して命尽きることがもしもあるのなら、それはとても悲しい事です。その時私たちがまだ生きているとしたのなら、親よりも早く命を終えること以上の親不孝は無いのです。
しかし、それ以上に思う事。それは君がその立場において戦地で相手と対峙し、君が放つ銃弾により誰かの命を奪うとしたのなら、それは人として許せるものではないのです。
そう、強く思うのです。日本人として、困窮する被災地の方々に心から寄り添える、そういった自衛官になってほしい。
そしてそれは、日本人として以前に、人として正しい感情をもち、人として正しい行動をとってほしい。そう願う以外のものではありません。
そんな廣が6月に18歳を迎え、その時19歳だった裕貴と共に初めて選挙権を行使しました。18歳を選挙人とする新しい選挙制度により、彼らが彼らなりに候補者たちの主義主張を見、聞き、自分にとって最良の人を選ぶ権利を得たことは、彼らの意識を変えより成長させてくれたことに違いありません。
今後も君たちが描く素晴らしい未来に向かって、最良の選択を続けてくれることを願います。
11月の誕生日をもって二十歳となった裕貴は相変わらず信濃大町駅でお世話になりながら、社会人として研鑽の日々をつみ重ねています。
職場では労働組合の窓口なども任されつつ日勤、夜勤のシフトにもようやく慣れて後輩も迎え、時折仕事で大町に繰り出した際に駅そばを食べるのに立ち寄ってみると、アナウンスなどもそつなくこなすその姿は駅員さんそのものになってきました。
保育園の頃の裕貴の姿を知っている人なら、今の裕貴の姿を想像できる人はいなかったはずです。大きく成長するチャンスをくださった、彼の今までの日々に関わってくださったすべての方々に心から感謝します。
みづきはいよいよ春から中学生。小さいままで中学生になるのがとても不安ですが、両親ともさほど小さいほうではないので、じきに背丈も伸びてくるんだろうと楽観していることもありますが、それでも親としてできる最小限の事として、食事だけは朝晩(質はともかく)量だけは一丁前以上に食べさせるよう心がけ、平均的な中学生くらいになるよう願っています。
穂姫、愛姫ももちろん、我が家の子供たち全員に共通している事ですが、自分で考える学習よりも覚え込む学習が得意な節があるので、中学生になり算数が数学になった時、その学習に着いて行けるのか不安もありますが、現在担任してくださっている小山先生が適切な指導をしてくださっているので、引き続き学習を嫌いにならず中学生活を楽しんでくれれば何よりです。
その穂姫、愛姫はだんだんと個性が分かれるようになってきました。何事もキッチリ、誰とでも表裏なく付き合いの出来る穂姫。手を抜けるところはなるべく手を抜き、しかしこだわるところはストイックなまでにこだわる愛姫。
毎日宿題とランニングを欠かさず小さなことの積み重ねが大きな結果に結びつくことを体感して、その喜びと共に2年間を走り切って中学生活に弾みをつけ乗り込んでほしいものです。
女房は40歳から折り返して今年は33歳。5人の子供たちへの愛情だけはほかのどの親の子への愛情よりも深く広いその様を日々横目に見つつ、しかし時折は自分の合理性のために子供を第一としたプロセスを端折る節もあるので、そのあたりは修正しつつこれから先も変わらぬ愛情を注いでもらえたら。
例年書いたことのない、母のこと。今年は大きな変化を迎え、4月に80歳を迎えるその身体に大きな負担を懸ける手術をしました。
これからあと何年、こうして平穏でいられるのかは神のみぞ知るところですが、何かしらいつも気を掛けて過ごしていかなければならないと再認識。急にどうこうはないでしょうが、ある程度の覚悟をもって接していかなければなりません。
隣に建っているJAの建物もこの冬、3月31日を工期として解体工事が行われる運びとなり、我が社で受注する事が出来ました。
敷地や建物から母が得て来た収入は決して小さくなく、これまで長きにわたりお付き合いいただけたJAさんにはこれまた感謝の気持ちでいっぱいです。
建物が撤去されると、我が家の他にこの月岡地区で民家はほぼなくなってしまいます。バイパスと生活道路に囲まれるような状況になるのがまだ絵空事でしかなく、どんな不便があるのか予想もできませんが、しかし私たちはここで暮らし続ける事をずっと決めていますので、雨が溜まって家が傷むようなことだけは無いように、建設事務所と折衝していこうと思います。
今年も一年、多くの皆様方に支えられて我が家の家族全員がこうして新しい年を迎えられることを、重ね重ね感謝しつつ、新しい年の幕開けとともにすべての皆様の日々が幸せでありますように願い、今年の総括といたします。
また今年も女房に愛を告げて新しい年の訪れをまた祝い、一眠りして心新たに迎えたいと思います。
毎年ですが、来年の終わりにもまた、
「来年も良い年でありますように」
と願えるように。
皆様、良いお年を。そして新年もまたどうか変わらず我が家族をよろしくお願い致しますヽ(´ー`)ノ
また来年も、どうかよろしくお願いいたします。
まずは一日も早い復旧復興と、被災された方々が平穏な日々を取り戻されますことを切に願います。
さて、我が家では恒例ですが、ショボい年越しの料理と共にテレビで紅白歌合戦を鑑賞し、っからの自前手打ちそば(今年は池原屋さん製粉による特別Ver.)にて年越し、やがてやってくる午前0時の時報とともに、また新しい歳を迎える準備が整いました。
年々長文になる気配のあるこの備忘録ですが、今年以降は短文で簡素にまとめるべく努力をしていくことをまず誓って、まずは仕事の面から総括に入りたいと思います。
〆てみると神代断層地震による需要の急増などによって他地区からの安価な販売を行う大手建材販売業者などが市場に参入してきたことが影響し、木材や建材の売り上げが大きく減少したものの、数字の上では今までになく経常利益が計上された2015年の決算。しかし、いざ税金を納める段になると預貯金も現金もなく、あやうく納税のために借金をしなければならないぎりぎりのところでした。
2016年は冬季から工事の請負が順調に回せたこともあり、また年末の工事終了まで工場も現場も事故なく終了する事が出来て、建設勘定においてはまぁまぁな1年を過ごせました。
逆に木材の販売は昨年に輪を懸けて減少し、工場勘定単独では大きく赤字を作ったはずですが、これも12月〆の決算を終えて見なければその実態は明らかになりません。
が、いずれにしても市場は縮小し建築自体も減っている中、現在の業態を維持するのはやがて近い時期に無理が来るものだと思います。
何かしら手を打たなければならない時期。それは解っていますが、どの方向に舵を切ればよいのかまだ見えていないのも事実です。
次男の野球が終わり、いよいよ週末ごと長野に出かける日も無くなったので、この冬の間にじっくり考えていきたいものです。
ではまず今年の主役、我が廣やん。
昨年のエントリーでも記した通り、我が家にとって今年最大のイベントとなった廣の野球。長野商業での野球を終えました。
入学以来なかなか芽を出さず、2年生になっても練習試合では審判役、ノックではノッカー補助などをしている姿を見てはなんとも言えない心の痛みに苛まれていましたが、2016年になり新たな練習環境が整うなかで冬を超えた彼は、3年を間近に控えた3月にCチームからBチームへと上がると私たちが行きたかった三重への遠征メンバーに選抜され、裕貴以外の家族で向かったその練習試合では仲間のメンバーの負傷もあり、Aチームの試合に出場。ある程度の結果を残し、4月になって迎えた春季大会では背番号19を頂き、北信予選会から県大会へとすすむなかでいくつかの試合で出場機会を得、守備打撃ともにそこそこチームに貢献するという、私たち夫婦が夢にも見なかった結果を残すことができました。
残念ながら最後の夏には背番号を頂く事が出来ずスタンドで仲間の戦いを支える側に回りましたが、最後の最後までよく頑張り、私たち夫婦を兄貴以上に心底ワクワクさせてくれました。
昨年の総括でも書きましたが、「テロ」という見えても見えない相手との闘いが相変わらず世界の人々を脅かし、たまに東京などに出てもまず人ごみなどでは(申し訳ないのですが)中東系の方を見かけるとなるべく早めに逆方向へと足を運ぶ習慣が付いてきました。
日本人とて、そういった事案にいつ巻き込まれるかもしれない状況の中で、自民公明の与党による(いわゆる)戦争法案が可決され、駆けつけ警護なる武力行使が法で容認される時がきた今年。次男は、昨年ここで彼の志望通り自衛隊の採用試験を受け、長商を卒業する春には海上自衛官として、いずれかの任地にて我々国民の生命と財産を守るため、その職に就くことが決まりました。
親として、このような状況の中で自衛隊に息子を送り出すことが本当に残念でしかありませんが、しかし彼は彼の選んだ今後の人生において、自衛官という立場の中で生きていこうと決めました。
両手放しで送り出せるわけではありませんが、しかし精一杯頑張ろうと決めた彼の人生を、これからも親として支えていこう。そう決めました。
一応書いておきます。君がその立場において戦地と言われる場所に派遣され、被弾して命尽きることがもしもあるのなら、それはとても悲しい事です。その時私たちがまだ生きているとしたのなら、親よりも早く命を終えること以上の親不孝は無いのです。
しかし、それ以上に思う事。それは君がその立場において戦地で相手と対峙し、君が放つ銃弾により誰かの命を奪うとしたのなら、それは人として許せるものではないのです。
そう、強く思うのです。日本人として、困窮する被災地の方々に心から寄り添える、そういった自衛官になってほしい。
そしてそれは、日本人として以前に、人として正しい感情をもち、人として正しい行動をとってほしい。そう願う以外のものではありません。
そんな廣が6月に18歳を迎え、その時19歳だった裕貴と共に初めて選挙権を行使しました。18歳を選挙人とする新しい選挙制度により、彼らが彼らなりに候補者たちの主義主張を見、聞き、自分にとって最良の人を選ぶ権利を得たことは、彼らの意識を変えより成長させてくれたことに違いありません。
今後も君たちが描く素晴らしい未来に向かって、最良の選択を続けてくれることを願います。
11月の誕生日をもって二十歳となった裕貴は相変わらず信濃大町駅でお世話になりながら、社会人として研鑽の日々をつみ重ねています。
職場では労働組合の窓口なども任されつつ日勤、夜勤のシフトにもようやく慣れて後輩も迎え、時折仕事で大町に繰り出した際に駅そばを食べるのに立ち寄ってみると、アナウンスなどもそつなくこなすその姿は駅員さんそのものになってきました。
保育園の頃の裕貴の姿を知っている人なら、今の裕貴の姿を想像できる人はいなかったはずです。大きく成長するチャンスをくださった、彼の今までの日々に関わってくださったすべての方々に心から感謝します。
みづきはいよいよ春から中学生。小さいままで中学生になるのがとても不安ですが、両親ともさほど小さいほうではないので、じきに背丈も伸びてくるんだろうと楽観していることもありますが、それでも親としてできる最小限の事として、食事だけは朝晩(質はともかく)量だけは一丁前以上に食べさせるよう心がけ、平均的な中学生くらいになるよう願っています。
穂姫、愛姫ももちろん、我が家の子供たち全員に共通している事ですが、自分で考える学習よりも覚え込む学習が得意な節があるので、中学生になり算数が数学になった時、その学習に着いて行けるのか不安もありますが、現在担任してくださっている小山先生が適切な指導をしてくださっているので、引き続き学習を嫌いにならず中学生活を楽しんでくれれば何よりです。
その穂姫、愛姫はだんだんと個性が分かれるようになってきました。何事もキッチリ、誰とでも表裏なく付き合いの出来る穂姫。手を抜けるところはなるべく手を抜き、しかしこだわるところはストイックなまでにこだわる愛姫。
毎日宿題とランニングを欠かさず小さなことの積み重ねが大きな結果に結びつくことを体感して、その喜びと共に2年間を走り切って中学生活に弾みをつけ乗り込んでほしいものです。
女房は40歳から折り返して今年は33歳。5人の子供たちへの愛情だけはほかのどの親の子への愛情よりも深く広いその様を日々横目に見つつ、しかし時折は自分の合理性のために子供を第一としたプロセスを端折る節もあるので、そのあたりは修正しつつこれから先も変わらぬ愛情を注いでもらえたら。
例年書いたことのない、母のこと。今年は大きな変化を迎え、4月に80歳を迎えるその身体に大きな負担を懸ける手術をしました。
これからあと何年、こうして平穏でいられるのかは神のみぞ知るところですが、何かしらいつも気を掛けて過ごしていかなければならないと再認識。急にどうこうはないでしょうが、ある程度の覚悟をもって接していかなければなりません。
隣に建っているJAの建物もこの冬、3月31日を工期として解体工事が行われる運びとなり、我が社で受注する事が出来ました。
敷地や建物から母が得て来た収入は決して小さくなく、これまで長きにわたりお付き合いいただけたJAさんにはこれまた感謝の気持ちでいっぱいです。
建物が撤去されると、我が家の他にこの月岡地区で民家はほぼなくなってしまいます。バイパスと生活道路に囲まれるような状況になるのがまだ絵空事でしかなく、どんな不便があるのか予想もできませんが、しかし私たちはここで暮らし続ける事をずっと決めていますので、雨が溜まって家が傷むようなことだけは無いように、建設事務所と折衝していこうと思います。
今年も一年、多くの皆様方に支えられて我が家の家族全員がこうして新しい年を迎えられることを、重ね重ね感謝しつつ、新しい年の幕開けとともにすべての皆様の日々が幸せでありますように願い、今年の総括といたします。
また今年も女房に愛を告げて新しい年の訪れをまた祝い、一眠りして心新たに迎えたいと思います。
毎年ですが、来年の終わりにもまた、
「来年も良い年でありますように」
と願えるように。
皆様、良いお年を。そして新年もまたどうか変わらず我が家族をよろしくお願い致しますヽ(´ー`)ノ
また来年も、どうかよろしくお願いいたします。
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