2010年2月23日
#0124 目指すべきものを達成すること
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22:23
私の大好きなスキーヤー、アメリカのボディ・ミラーについて、私の知人で建築家、一度だけ仕事もさせていただいたことがある方のブログに書かれていました。
先を越された!と思いましたが後追いで私の気持ちも書き認めておきます。
私が好きなのは彼の自由奔放なスタイルでもその才能でもなく、彼のスキーが描くラインです。
もちろん、そのラインを生み出すものは、常識という既成概念に捕われることない自由さ、異常なまでの下半身のしなやかさや才能であることは明らかですが、でも結果として生まれる、ゲート内で彼が操る2本のスキー板が生み出すそのライン。他の選手にはないラインが、とても好きです。
最初に彼の滑りを見たのは長野オリンピックでした。しかも天候不順により競技の放送が変更になって、本来見たかったスノーボードGSの競技にかわって放映された映像のビデオ録画でした。
当時はまだカーヴィング革命は初期段階で、オリンピックといえどもスラロームでカーヴしている選手はほとんどいませんでした。仕方なく見始めた、目的とは違ったそのビデオでしたが、私は彼のすべりに目が釘付けになりました。
彼にとって初めてのオリンピック、そのSL競技において、彼のスキーはスノーボードのそれと同じようにカーヴィングしながらゲートを回り、フォールラインを横切りながら最も速いタイムでゴールすることを目指して滑り落ちていました。
右に左にと大きく動き続ける下半身に対して上半身は低くその制御をすることに精一杯で、時にはゲート脇を大きく外れて回り込むこともありましたが、タイムロスをしながらも彼は一本目を終わりました。
1本目のリザルトは22位。上位15人によるフリップが終わってほぼ最終順位が決定したその後に迎えた彼の2本目。結果は途中でDNFとなってしまいましたが、しかし1本目で見せたそのすべりと同様に、彼のスキーはカーヴィングを続けてゴールを目指していたのです。
その数年後のシーズンにはワールドカップで戦う選手のほとんどが、彼同様にスキーをカーヴさせて滑るスタイルになり、そして彼は長野の4年後のソルトレークで、2個の銀メダルに輝きました。
それ以後の活躍はご存知の通り、ワールドカップ・トロフィーの数は知れず。しかしトリノではその果敢なカーヴィングスタイルによる攻撃的な滑りが何かひとつ歯車がかみ合っていない感じで、タイトルを逃してしまいました。
32歳となった今年の彼は、ナショナルチームに復帰してオリンピックの舞台に帰ってきました。スタイルはそのままに、しかしアタック限界点の見極め荷も経験を積むことによりオブラートをかけることなくまさに技術に磨きをかけて。
彼にまだなかった、ゴールドメダルを取るために、彼は滑降で銅メダルを取るとSGで銀メダルを取り、そしてとうとう、このオリンピックから取り入れられた新しい複合種目、スーパー複合で悲願の金メダルを獲得しました。
とても遅咲きとはいえません。早くから才能を開花させ、誰にも出来なかったことを彼のスタイルとして彼の自然体でやって見せてきました。
あの、長野オリンピックで見せた彼の荒削りな滑りに私が感じた彼の輝かしい未来は、私にとっては結構時間が掛かってやってきました。が、それでも彼はまだまだやり残したこと、目指すべきものがこの先たくさん待っているのかもしれません。
ヘルマン・マイヤーが大怪我から復帰してメダリストであり続け、37歳を持ってしてもまだワールドカップで優勝したように、いや、それ以上にミラーのラインには大きな可能性を感じるのです。
私も彼のように、深くシャープなカーヴィング・ラインを刻み続けよう、とまたバーナーに乗るのです(笑)。
先を越された!と思いましたが後追いで私の気持ちも書き認めておきます。
私が好きなのは彼の自由奔放なスタイルでもその才能でもなく、彼のスキーが描くラインです。
もちろん、そのラインを生み出すものは、常識という既成概念に捕われることない自由さ、異常なまでの下半身のしなやかさや才能であることは明らかですが、でも結果として生まれる、ゲート内で彼が操る2本のスキー板が生み出すそのライン。他の選手にはないラインが、とても好きです。
最初に彼の滑りを見たのは長野オリンピックでした。しかも天候不順により競技の放送が変更になって、本来見たかったスノーボードGSの競技にかわって放映された映像のビデオ録画でした。
当時はまだカーヴィング革命は初期段階で、オリンピックといえどもスラロームでカーヴしている選手はほとんどいませんでした。仕方なく見始めた、目的とは違ったそのビデオでしたが、私は彼のすべりに目が釘付けになりました。
彼にとって初めてのオリンピック、そのSL競技において、彼のスキーはスノーボードのそれと同じようにカーヴィングしながらゲートを回り、フォールラインを横切りながら最も速いタイムでゴールすることを目指して滑り落ちていました。
右に左にと大きく動き続ける下半身に対して上半身は低くその制御をすることに精一杯で、時にはゲート脇を大きく外れて回り込むこともありましたが、タイムロスをしながらも彼は一本目を終わりました。
1本目のリザルトは22位。上位15人によるフリップが終わってほぼ最終順位が決定したその後に迎えた彼の2本目。結果は途中でDNFとなってしまいましたが、しかし1本目で見せたそのすべりと同様に、彼のスキーはカーヴィングを続けてゴールを目指していたのです。
その数年後のシーズンにはワールドカップで戦う選手のほとんどが、彼同様にスキーをカーヴさせて滑るスタイルになり、そして彼は長野の4年後のソルトレークで、2個の銀メダルに輝きました。
それ以後の活躍はご存知の通り、ワールドカップ・トロフィーの数は知れず。しかしトリノではその果敢なカーヴィングスタイルによる攻撃的な滑りが何かひとつ歯車がかみ合っていない感じで、タイトルを逃してしまいました。
32歳となった今年の彼は、ナショナルチームに復帰してオリンピックの舞台に帰ってきました。スタイルはそのままに、しかしアタック限界点の見極め荷も経験を積むことによりオブラートをかけることなくまさに技術に磨きをかけて。
彼にまだなかった、ゴールドメダルを取るために、彼は滑降で銅メダルを取るとSGで銀メダルを取り、そしてとうとう、このオリンピックから取り入れられた新しい複合種目、スーパー複合で悲願の金メダルを獲得しました。
とても遅咲きとはいえません。早くから才能を開花させ、誰にも出来なかったことを彼のスタイルとして彼の自然体でやって見せてきました。
あの、長野オリンピックで見せた彼の荒削りな滑りに私が感じた彼の輝かしい未来は、私にとっては結構時間が掛かってやってきました。が、それでも彼はまだまだやり残したこと、目指すべきものがこの先たくさん待っているのかもしれません。
ヘルマン・マイヤーが大怪我から復帰してメダリストであり続け、37歳を持ってしてもまだワールドカップで優勝したように、いや、それ以上にミラーのラインには大きな可能性を感じるのです。
私も彼のように、深くシャープなカーヴィング・ラインを刻み続けよう、とまたバーナーに乗るのです(笑)。
Written by
Morito D-David Nishizawa
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