まだみんな寝ていたので、海を眺めながら缶ビールを一本。やがて明るくなり、6時前にみんな起き出しました。
朝の入浴に皆向かい、帰って来てからみんながそろったところで朝食のバイキングです。
裕貴は妹たちとの時間を目いっぱい楽しんでます。
なんだかヒデキがカンゲキしつつ出てきそうな趣のある、ステージと脇の階段。きっとそんなショーも催されたりするんだろうなぁ、とか思いながら、語り部ツアーの集合に間に合うよう食事をとりました。
いよいよ出発。
結構満員近くまで乗りました。
この背中側が海。道路のすぐわきにあった小学校と保育園の児童、園児は震災2日前にあった大きな揺れに、
「大地震による津波が来たら、いつも避難訓練をしている校舎の屋上では危険すぎる」
という校長先生はじめ職員の皆さんの判断に、翌日となる震災前日、あの丘の上の住宅脇まで避難する訓練をすぐに行ったそうです。
そうした先生方の好判断で訓練を行っておいたことにより、震災当日は揺れが収まったところで即座に避難行動を開始でき、隣の保育園児たちとも一緒にあの丘まで一気に駆け上る事が出来たそうです。
そして振り返ると想像を超える大津波が、すでに校舎を呑み込んでいたそうです。ここでも先生方の判断が素晴らしく、すぐに重機が止まっている右手側の林の中にある、もう一段高い神社の境内に逃げ込み、振り返るとこの住宅の屋根近い高さまですでに津波が到達していたとのことでした。
逆に少しだけ海側にある高台の中学校。生徒や職員のほか、この学校に避難した住民みなさんが2階で津波をやり過ごしていたそうです。1階はすでに水没。校舎の時計は地震による停電で止まったとのことでした。
その津波が収まり引き波が校舎のある高台から引いたのを見計らい、数人の住民が津波に襲われた海岸沿いの街並みを確認するために校舎から出たところで、なんと一呼吸おいてもう一波の引き波が校舎を囲むように流れ込み、9名の方がそこで流され命を落とされた、とのことでした。
日に日に姿を消していく震災遺構。ヲレらが宿泊したホテルが運営する会館の向かいにあった、70名余が命を落とした公立病院も、震災後解体されたそうです。無理からぬところです。
その会館では当日、老人の方たちのお楽しみ会的な催しが開かれ、大勢のお年寄りがおられたそうです。地震はその催しの閉会挨拶の時起こったそうで、パニックになったお年寄りたちは皆自宅をめざし帰ろうとしたそうですが、会館の従業員たちが必死で外出を食い止め屋上に避難を促し、ほとんどの参加者が一命を取り留める事が出来たそうです。
わずかな隙間からはい出るように脱出し、我が家を目指したお年寄り4名は、残念ながら流されて亡くなられたそうです。
ひとつの判断ミス、ちょっとしたきかっけで、運命が大きく変わることを強く感じました。
そしてあの有名すぎる場所に。
鉄骨に引っかかっていた漂流物はきれいに取り去られ、今は建築本体の骨組みとわずかな内部の機材が残されているのみです。
防災対策庁舎と呼ぶにはあまりにも無力すぎた建物でした。この建物に限らず、多くの今も残されている建物を巡ってはいろんな感情もある中で、保存と解体のはざまで揺れる庁舎や建物の行く末に、遠く離れた自分がどうのこうの言える立場では全くありません。
が、せめてこうしてこの地を襲った大震災による津波の被害を、後世に伝える役割を果たし続けていってくれたら。
きっと、なにかを感じ次代に活かしていける世代が、どこかにいるに違いありません。
防災対策庁舎の見学をもって、1時間余りのツアーは終了しました。ご案内下さった語り部の伊藤さんはホテルの従業員で御年72歳。いつまで出来るかわからないが、次に来てくれた時にまた会えるよう、天命と思い頑張っていく。そうおっしゃっていました。
チェックアウトを済ませ南三陸を離れる前、もう一度先ほど案内された、小学生たちが避難した場所に我が家だけで向かってみました。
最初に逃げ込んだ高台から見る海。ここはとても高く、まさかここまで波に飲み込まれようとは思いもしなかったことだと思いました。
神社の鳥居脇、津波が到達した高さには記念碑がたてられ、次代に思いを伝える役割をしていました。住宅が建つ高台からさらに2メートル以上は高いようでした。
児童、園児と先生方が逃げ込めた神社と境内。あの日と同じように雪が舞い我々は服を着ていても寒かったのに、着の身着のままで避難した子供たちが、通信電気などライフラインが途絶え、家族の安否すらわからないあの状況の中、ここで身を寄せ合い一夜を乗り越えることができた事は、まさに人間の生きるための力を感じさせられました。
素晴らしい判断をして下さった先生方に、本当に感謝です。
震災翌日、という事もあり、あらゆる場所のちょっとしたところに花が手向けられていました。
ここで南三陸をまた必ず訪れる決意と共にハンドルを切り、南下するため内陸側に移動を始めました。
車内ではさっきのツアーで寝てたマナに、虐めとも取れる震災津波クイズ(笑)。ヲレらは笑ってますが本人泣いてます。自業自得ですキパーリ
屋台村のようなさんさん商店街。南三陸きらきら丼が超有名で、せっかくなので「うにだけ丼」とかを女房に食べさせたかったのに、朝食のバイキングをめった頑張って元取ったせいで食べる事できずorz........
とりあえず南三陸と交流があるチリから贈られたというモアイとパチリ。
中庭でも。
結局何も食べず、何も買わずに出発してしまい、前日に続き空腹な車内で遅い昼食になろうとは思いもしませんでした。
南三陸は高台移転が基本方針のため、沿岸部の盛土の上すら商業専用の建築物しか許可が下りず、住宅はすべて高台を造成しての建設という事らしいです。湾を取り巻く旧市街地の周囲、少し高い場所は多くのところで移転場所確保のための造成が進んでいました。
いずれにしても、今までのような密なコミュニティを形成する集落を形成していくことはとても難しく、だからこそ分散する小集落の中でいかにそれらを保てる状況を作り出せるか、建築計画を行う関係者の努力が試されているように感じました。
で、往路で使った東北自動車道ルートではなく帰りは先日3月1日に全線開通した常磐自動車道を使って関東方面に戻る事にしました。
ただし、福島原発の事故による放射能汚染は今も深刻で、たとえ通過中の自動車といえども汚染の無い地域で普通に暮らしているよりか被ばくすることは間違いありません。
それでも今回の機会に、汚染地域の状況を見れるだけ見たかった。
常磐道のモニタリングポスト、事前の表示は最大で5.3μSvとなっていました。車内は内気循環、子供たちにはマスクをつけさせましたが、おそらくあまり意味は無いでしょう。
農地でも除染作業が進められている様子です。
全線開通を示し祝う横断幕。
近づくほどに、最大線量は上がりました。
翌々日から仙台で開催される、国連防災世界会議に向かうお役人さんでしょうか、黒塗りのセンチュリーが10台以上続く車列と、何回かすれ違いました。皆この汚染地域を通行し、被災地で10年ぶりに開催される国際会議に向かいます。
しかし農地は相変わらず。
線量もあがったり下がったりで、
除染のため発生したとみられる汚染物質の土嚢。シートが掛けられてはいますが、あくまで気休めの域を超えているとは、とても思えません。
黒い袋に包まれたままの汚染物質も、高濃度汚染地域に近づくほど手つかずの状態で見られます。
思う事、たくさんありました。常磐道を横切る高架送電線の繋がる先は、収束のめどさえいまだ見いだせないあの福島第一原発。この荒れ果てた土地を見て、子供たちはなにを感じたのでしょうか。
日頃、
「原発は日本をダメにするんだよ。だめにしてしまったんだよ」
と言い伝えている親の言葉を、どう受け止めたでしょうか。
ハイ、何も感じなかった、に一票orz........
いよいよ常磐道も茨城に入り、なんかどこでも手に入りそうなサイダーが売られていました(笑)。その向こうの納豆はきっと価値あるな。うん。
で、この日の目的地である成田市に向けてナビの案内で進むと、とてもローカルな風景の道ばっかりを指定して進めさせられましたのでアゲます。
ホント不安な気持ち一杯ですすみましたが、どうにか一昨年泊まったあの宿に、無事到着。成田山新勝寺は歩いてすぐです。
チェックインのためフロントに行くと、季節外れの浴衣を召された女性に担当者が掛かりっきりで、
でも超ビジーソなんで許しマスタ!OMG(*゚ェ゚*)
ツインのベッド二つと畳のコーナーに布団が4つ。予約のタイミングで禁煙室が取れず、タバコっ臭かったのが残念でしたが、それ以外は安い宿ですので申し分なく♪
荷物だけおいて、とりあえず夕食を食べるため、成田の繁華街に出かけました。
ほいで、子供たちが選んだのは某ブラック企業。ボカシ入れたんでおそらく皆さんには解らないかと( *´艸`)
飲食も程々、帰りはホテルの近くに見えたバッティングセンターに行きたい、と言い出した裕貴にリスペクトされた三姉妹が同行することになりましたので、
ヲレら夫婦
バッティングセンターを経営する、人の好さそうなオバチャソはきっとどこにでもいるタイプ(笑)。
「ちょっと速いトコに入っちゃったんだよ」
とおっしゃるそのマシンは95キロ。でも別に当てるのが目的じゃないので、楽しめたようです。
受付事務所のカウンター上部には、今年ホームランを打った猛者たちの記録が。
ホイでヤシ。合宿免許の取得期間中にJRのゆるーい野球チームからお誘いがあったのを受け、多少素振りをしてはいたらしいですが、結局のところ劣化の度合いが激しく、それでもホームランに近い当たり(あくまで的当てレベル)は2本くらい出たらしいです(笑)
バッティングセンターでのゲームを終了し外に出ると、この日は木曜日。地域の少年たちを対象にして、アルバイトでしょうがコーチがゲージの中で念入りにバッティングの指導をしていました。
あちらの立体駐車場下でも、トスバッティング。
子供たちの夢をかなえるため、こうして小さなことかもしれませんがコツコツと積み重ね地域で頑張っているバッティングセンターの経営姿勢に頭が下がりました。
その後三姉妹だけホテルに戻し、風呂に入って早く寝ろと指示を出し、ヲレらは2年前にはなかったホテル向かいのクルクル亭(来来亭)で〆のラーメソ。
デキモノ出てきましたがものともせずコッテりしたやつを胃袋に流し込む女房が大好きです♡
食後、これで最後だろう。と裕貴に伝えました。
小さい頃には他の子供たちとちょっと違って、お母さんはよく涙を流していたこと。でも、そんな事をものともしないくらい、野球に出会った裕貴はヲレら夫婦にかけがえのない楽しみをいつも与えてくれ、そして頑張り抜いてくれたこと。高校野球最後となった夏には、入学した時には夢にも思わなかったくらい、ヲレら夫婦だけじゃなく女房の実家の両親や祖母にまで、熱く楽しい、長い夏を楽しませてくれたこと。
それらの思い出をもらえた事に心から感謝して、二人で正座してお礼を告げました。
そして、これからはもうヲレらのために頑張る必要はないんだと言う事。裕貴は、裕貴に期待して採用してくれた会社と、その会社を利用してくださるお客様、そしてその後家族を持てたのなら、その家族のために頑張るんだ、と言う事。
頑張る事で喜んでくれる対象は変わりますが、今まで頑張ってきたように引き続き今まで身につけたこと、学んできたことを最大限に活かして、頑張っていってもらいたいものです。
部屋に帰るとすでに三姉妹は寝ていました。ヲレらも風呂に入り、これまたはやい時間に床に就きました。
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